北下浦小学校
1873年(明治6年)
長沢学舎が法善寺(現在の堂前源仲商店付近)の本堂を借りて、児童数35名で設立されました。野比学舎が最宝寺に、津久井学舎が法蔵院の近くに設立されました。
1901年(明治34年)
5月12日、3つの小学校を合併して、神奈川県三浦郡北下浦村立尋常北下浦小学校が現在地に開校しました。尋常科は4年までで、1、2年生と3、4年生で1クラスずつありました。勉強は、読本・算術・習字でした。習字は、1枚の紙に何回でも書き、まっ黒になったら日で乾かしてまた使っていました。
1923年(大正12年)
関東大震災のため、校舎の全部が倒れました。亡くなった児童もいました。校舎がなくなったため、板で囲んで授業を始めました。露天教室なので、雨天は授業がなく、日曜日でも雨が降らなければ授業をしたそうです。
1926年(大正15年)
震災の後、校舎の一部は復旧されていましたが、この年に新しい校舎ができあがりました。(木造平屋2棟16普通教室)
1941年(昭和16年)
「国民学校令」により、北下浦国民学校と名前が変わりました。
1943年(昭和18年)
北下浦村が横須賀市に編入され、横須賀市立北下浦国民学校と改称されました。
1944年(昭和19年)
戦争がはげしくなったので、他の地区では集団そかいをしましたが、北下浦は農村地区のため、そかいはしませんでした。しかし、大きい子どもたちは農家へ手伝いに行きました。校舎の一部は、海軍の宿舎や教室にもなりました。
1947年(昭和22年)
横須賀市立北下浦小学校となりました。給食室ができ、この年の9月から補食給食(家からお弁当を持ってきて、学校ではみそ汁の給食)が始まりました。今のような完全給食になったのは、4年後でした。その頃は、久里浜まで、牛車やリヤカーで給食の品物を取りに行ったそうです。
1950年(昭和25年)
新しい校章と校歌ができました。校歌は、吉岡敏雄作詞・月岡忠三作曲、二人とも横浜国立大学学芸学部の教授でした。
1966年(昭和41年)
体育館が新築されました。この年の3月に京急長沢駅が開業し、7月には京急が三浦海岸までのびました。学区の辺りも急に開発が進み、住宅地が次々にできました。
1972年(昭和47年)
鉄筋校舎が完成しました。現在の第3校舎の9教室です。この当時の学区は広く、そのうえ、電車やバスの通学者がたくさんいました。
1973年(昭和48年)
粟田小学校が分離独立、開校しました。12月に、給食室付近から出火。木造2階建て校舎の給食室・理科室・図書室が焼けてしまいました。
1974年(昭和49年)
鉄筋校舎が完成しました。現在の管理棟・給食室です。新しい校舎ができるまで、体育館は職員室になり、校庭は材木置場になりました。体育は、海岸や山道を利用し、中学校の校庭も借りました。
1976年(昭和51年)
津久井小学校が分離独立、開校しました。これで学区は、野比と長沢(グリーンハイツをのぞく)になり、少しせまくなりました。
1978年(昭和53年)
鉄筋校舎が増築されました。現在の第1校舎教室棟(13教室、1資料室)です。
1982年(昭和57年)
野比小学校が分離独立、開校しました。
1999年(平成11年)
7月時点の在籍数、437名(男子211名、女子226名)。2001年の創立百周年にむけて、準備として地域歴代実行委員会が発足しました。
ケヤキの養生作業をしました。
2000年(平成12年)

100周年にむけて昔博物館の資料が整理されました。
2001年(平成13年)
5月創立100周年を迎え盛大な記念式典が行われました。
視聴覚室がPC教室に改修されました。
2002年(平成14年)
2003年(平成15年)
PC教室にノートパソコンが配置されました。
2004年(平成16年)