本校の歴史

SINCE 1976.7.28

学校の概要(学区の概要・沿革・生徒数の変遷)

校章

上の台中学校は、山を切り崩したところにあり、緑に恵まれているところから、右上に葉の形をつけ、「中」の上の丸は、東京湾の波を示す。「中」の下の三本線は、三つの学年の仲間同士の団結を意味し、葉が「上」という字をつくっている。三枚の葉は、 誠実、健康、自立を意味し、教育目標を表す。

1979,12,17  職員会議で職員父母生徒より校章デザイン募集を決定
     12,14  終業式に美術科指導のプリント配布、冬休みの宿題
1988, 1,12  締め切り応募点数 生徒281父母28合同9職員4
      1,22  美術科教師で優秀作品19点に絞り職員会議で3点選出
      2,14  職員会議で選出された3点について、研究所の慶長先生
            の指導をうける。
1988, 2,26  職員会議で1年5組の越智 薫さんのデザインに決定

校歌

1 緑深き丘にそびえて   風わたるわれらが学舎
  開けゆく街をめぐらし  船通う海が目にしむ
  上の台この地にまなび  くみとろう知識の泉
  広げようわれらが希望

2 陽の光 この身にうけて ふみしめる明るき大地 
  この丘に友とむつめば  よみがえるとうとき遺跡
  上の台この地をたたえ  つたえよう文化の流れ 
  ふかめようわれらが友情

3 波白く 沖につづきて   房総の遠き朝雲
  空はるか世界を思う    意欲あれ心いちずに
  上の台この地につどい   たずねよう理想の道を
  はばたこうわれら未来へ

校歌ができるまでの日程

1980,7月上旬 国語科で作詞募集要項作成
             プリントを生徒父母職員に配布
     9月    全校代表6点を国語科で選出
     9月    関口先生に指導依頼
     9月    職員の意見をまとめて2点に絞る
    10月    さらに1点に絞る
    10月    関口先生に補修依頼
    10月    職員の意見をまとめ3年生の川崎美和さんの詞に決定
    10月    TVにて関口先生の説明によって校歌の歌詞を披露。
           作曲の募集について説明
    11月下旬  作曲締め切り、音楽科で10点に絞る
    12月    山田音楽指導主事に補作依頼
1981,1,19  山田指導主事来校  2年小原穣くんの曲に決定

上の台遺跡

 本校の敷地全域は、かつて縄文時代から古墳時代にかけての大規模な遺跡が存在しました。
この遺跡は、地元の小中学生や住民の方々の協力を得て、校舎建設以前に完全発掘が実施されました。
141軒に及ぶ弥生時代から古墳時代の竪穴式住居や、8000年前の縄文式土器など多数の出土品や遺構を発掘することができました。 現在これらの出土品は、横須賀考古学会の手で、市博物館において、整理されており、地元の人々にその成果が公開されています。そして、本校の校長室前にも、その一部が展示されております。 かつて縄文時代から古墳時代にかけての大規模な遺跡がありました。

会津藩士の墓

 1813年に観音崎に台場をつくるために三浦半島は会津藩の領地となり、そこで住んでいた藩士や家族の墓が、本校の裏門側の山の西徳寺にあります。
 また、本校の正面には「能満寺」があります。能満寺は、室町時代に創建され、江戸時代には薬師堂が、徳川家康からご朱印をうけて栄えました。
 「「鳥が崎」には古代の横穴古墳群がありました。

上ノ台のいわれ

 能満寺背後の台地に位置し、方言で「うえのでえ」と呼ばれていました。
 鴨居地域の古くからの地名は、ほとんどが鴨居八幡神社を中心とした位置関係によっています。上ノ台は神社の上の高台ということになります。
 現在の上ノ台中学校一帯に、上ノ台遺跡がありました。弥生時代の中期から古墳時代はじめにかけての住居跡が百四十一軒も重なり合うように発掘されました。また、焼けた米やカギ型の鉄器 も発掘され、この時代の集落跡としては、三浦半島東部では最大規模のものと思われます。