カモメ

 
浦賀小学校

浦賀小学校の歴史は、日本の歴史と深いつながりがあります。
さあ,地域の歴史とはどんなことなのでしょうか?

まぼろしの貿易港

それは昔,1600年,関ヶ原の戦いの6ヶ月前に九州の臼杵に漂着した,イギリス人 ウイリアム・アダムスと浦賀は関係があります。
臼杵にながれついた,リーフデ号はその後浦賀に回航されましたが嵐にあい修理ができない状態でした。しかし,徳川家康の家臣となったウイリアムアダムスは「三浦按針」と日本名と逸見に領地をもらい,家康の外交顧問として徳川幕府のなかで活躍しました。そして,浦賀港を日本の海外との貿易港と家康と相談して発展させようとしましたが,家康がなくなり,日本での活動が自由にできなくなり,1620年に九州の平戸でなくなりました。


1871年(明治 4年)
浦賀小学校の前身は、東浦賀と西浦賀にできた郷学校です。
郷学校は、地域の人たちによって作られ、地域の人のだしたお金と生徒の月謝を必要なことに使っていました。和学・漢字・習字・算術を勉強しました。

1898年(明治31年)
尋常高等浦賀小学校が現在の場所にできる。
学校ができる前は、田んぼだったところを埋め立てて、学校を建てました。
校舎は、このころはあまりなかった西洋建築で、とてもめずらしがられました。

1923年(大正12年)
関東大震災の被害を受け、校舎が全ぶこわれてしまいました。
この地震で、浦賀の町では、小学校に通っている子供が34名亡くなりました。
この年、浦賀尋常高等小学校に名前が変わりました。

1924年(大正13年)
震災の後、平屋建てで、コの字型の校舎ができました。

1941年(昭和16年)
浦賀国民学校に改名しました。校旗ができました。

1944年(昭和19年)
学童疎開が始まりました。

1946年(昭和21年)
火事で、校舎が全部焼けてしまいました。
学校を建てなおすために、武山にあった海兵団の建物をもらえることになり、先生や子どもたちもリヤカーなどでかわらや木材などを運びました。

1947年(昭和22年)
横須賀市立浦賀小学校と改名しました。

1948年(昭和23年)
木造の2階建て校舎に建て直しました。

1956年(昭和31年)
校旗を復元する。

1957年(昭和32年)
60周年記念として、校歌を決めました。

1961年(昭和36年)
この年より三期に分けて、鉄筋の校舎に建て替えが始まりました。

1969年(昭和44年)
プレハブ教室ができました。
開発で住宅地が浦賀の町に増えて、浦賀小学校に通う子どもの数が急に増えました。

1976年(昭和51年)
鉄筋の校舎を新築しました。子どもの数が増えたので、校庭の東側に新しい校舎ができました。

1998年(平成10年)
100周年記念式典を行いました。